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さらば北朝鮮


*平壌駅での人民兵(右)少しなきそうになってます。ちなみに着ているのはトレードマークの人民服

人民服についての補足・・・


1998年10月8日、最終日の朝は六時に目が覚めた。この日は朝から湯が出たので風呂に入った。
この国のホテルで朝に湯がでるとはなんとも幸先がいい。

泣いても笑っても今日で北朝鮮最後の日。朝飯を済ませて、昨日購入した北朝鮮人民服を来て8時40分に
ホテルをチェックアウトした。「とても良くお似合いですよ、森本さん!」金さんがやたらと褒めてくれた。

しかし私は、薄茶色の生地にファスナー式のジャンパーと薄手のスラックスを組み合わせた人民服は
”どこからどう見ても
電気屋のオッサンにしか見えない”

ことに気づいていた。  

前述したが、金正日総書記が人民のために24時間働ける服装を・・・
と作られた北朝鮮人民服の話を聞いたのが一昨日だった。
それを聴いてどうしても欲しくなった私は金さんに、買いたいと伝えた。

何故かその言葉に凄く喜んだ彼女は、その日のうちに何軒かの店に問い合わせてくれた。
そして昨夜、大同江ホテルの地下にある土産物屋で、念願の人民服に出会った。

ところが喜びも束の間、金さんは少し申し訳なさそうに「サイズが一つしかないそうなんですけど」と言った。
これは困った、と思ったが、試着してみると上衣・パンツともにピッタリのサイズだった。
「良かった。ピッタリですね、もし長さが違ってたら、私が夜なべで森本さんのために裾あげしようと思ってたんですよ」
と言って、金さんはまたはしゃいだ。

農沢君は初め「そんなの何が良いんですか?」と冷ややかな眼で見ていた。
彼は既に、モンゴルでオーダーした自慢のデールという民族衣装をザックに積んでいた。
「アホやな・・・農沢君、考えてもみーや デールなんか日本でもオーダー(かなり高いが)できるし、
これからナンボでも手に入るねんで。それに比べてこれは一生モン・・・」

私は、そんな農沢君を挑発し続けた。
「とにかく一度着てごらん」
試着くらいなら、と彼は人民服に袖を通して鏡の前にたった。
すると「これ、ボクにめちゃめちゃ似合ってますね!、これ似合いますよね!」
農沢君が嬉しそうに言うではないか。

確かに私もそう思った。私よりずっと似合っている。彼は、一重まぶたで切れ長の眼にメガネをかけている。
そう、・・・なんというか・・・生まれついての労働者顔なのである。

「こんなに似合ったら、もう買うしかないじゃないですか!」

24ウォン(1440円)ずつ払って一着ずつ入手した。私も農沢君も金さんも、みんな幸せでニコニコしていた。 これからこの服を着て旅を続けていこうと思った私は、耐久性のことを金さんに尋ねてみた。
「森本さん、この服は全て共和国のもので出来ています。それでね、凄く丈夫なんですよ。 (私のはいてい たGパンを指して)こんなズボンなんかよりもずっと丈夫なんです。”もうこの服に飽きたから、 早くすり切れて欲しい、早く破れて欲しい”そう思っても全然破れてくれないんです」。

Gパンより丈夫なわけないだろうと思ったがそのまま聞き流した。

ところが後々になって金さんの言っていたことが正しかったと気付かされた。
この服を買ったのが10月7日、日本に戻ってきたのが1月半ばだから、私は丸々3ヶ月このパンツだけをはき続けた。
普段からの物使いの荒さに加え、中国・ラオス・タイ・カンボジア・ベトナム・韓国とその後陸路で2万キロを移動し、 手洗いをしたのは3回、野宿も10回くらいしてきた。

しかしこの人民服のパンツから、ほころびはおろか
ピッチリしたプレスの跡すら取れることはなかった。 綿と化繊の合繊だとか言っていたが、詳しくは分からない。

旅先で出会った人は皆、消えないプレスの線に一様に驚いたものだった。 上着の方は、東南アジアに入ってから暑くてずっと腰にまいていたので不用心になり、 タイとカンボジアの国境付近で盗まれてしまった
私はこの時「いっそ旅を止めて帰ろうか?」と悩むくらい落ち込んだ。

蛇足としてつけ加えておくと、人民服を買った土産物屋には、他の衣類や朝鮮人参など色々置いてあった。
ふと酒棚を見ると、ひとつの瓶に、腰に手をあてて胸を張ったお馴染みの力道山の絵のラベルが貼ってあった。
力道山が密かに在日朝鮮人だったことは、今でこそ有名だが、まさか北朝鮮でも有名なんだろうか?

上機嫌な金さんは「彼は共和国でもスターですよ」と教えてくれた。
無理矢理たどると私の師匠筋に当たる人なので、是非とも”力道山酒”を買いたかったが、35ウォン(2100円)という値段もさることながら、 この先いつまで続くかわからない旅の荷物を増やせないという事情もあって断念した。
今思えば勿体ないことをしたと思う。

 

地下鉄について・・・


「地下鉄に乗りたい、乗りたい、地下鉄、チカテツ」と何度も繰り返して、やっと予定を組んでくれた。
最終日、つまり今日地下鉄に乗って平壌駅までいくのだ。

運ちゃんが地下鉄の駅まで車で送ってくれた。ここから次の駅まで乗ると、平壌駅は歩いてすぐとのことだった。
地理に明るくないので”ちょうど一駅だけ乗れば済むところに連れていかれた”のか”宿泊していた大同江ホテルの最寄り駅が平壌駅から 一駅だった”のかは分からない。

(*注 北朝鮮を出国して随分と経ってから分かったことですが、
やはり北朝鮮の地下鉄に外国人が乗れるのは「栄光」駅から「復興」までの一区間のみだそうです。
北朝鮮の地下鉄にはその他にも「勝利」「統一」などの駅名があり、
駅名だけじゃ何処に行くのか見当もつきません。)


「もう車に乗ることはない」と思い、荷物をかついで下車しようとすると運転手が笑いながら制した。
平壌駅まで運転手さんが運んでおいてくれるそうですよ」とガイドのミンさんが言った。
そう言われて、今更ながら自分たちが大名旅行であることを思い知った。

地下鉄の入り口付近にはそこそこ人がいた。
窓口で10チョン=0,1ウォン払ってコインを一枚もらい、入り口の自動改札に投入すると中に入れた。
平壌市内を走る地下鉄は十字にクロスする二路線。
料金表示がないことから考えると、どこまで乗っても同じ料金設定らしい。

「地下鉄も実はふつう動いてなくて、外国人が来たら慌てて動かしてるんじゃないか?」
などと心配していたが、人の流れや地下鉄の走る頻度からするとどうやらいつも動いているようだ。

高速エスカレーター(光速ではない、念のため:ちなみに光速ピストンの金村さんの話はこちら)に乗る。
上から見てその深さに目がテンになった。
この国の地下鉄は深さ200メートルのところに作ってある。
それを凄いスピードのエスカレーターで一気に下りるのだが、手元の時計で下まで二分九秒かかった。 直線で200メートル先にいる人ですらかなり小さいのに、 垂直に200メートルの距離を斜めに下りるのだから、下にいる人はアリンコくらいの大きさに見える。

モスクワの地下鉄もアホほど深くて、思わず記念写真をとったが、この国のはその1・5倍くらいの深さがあると思う。
もちろん深さにはちゃんと意味があって、北朝鮮の地下鉄は核シェルターを兼ねて作られているらしい。

ガイドに「金正日総書記のお宅などから、ここへ避難通路なんか通しておられるんですか?」と尋ねたら、
「いえ、そんなことはございません」と教科書通りの答えが返ってきた。

「(絶対あるっちゅうねん!)」と内心思いながら聞き流した。

漸くホームに着いた。
人があちこちにいるが、判で押したように誰もこちらに興味を示さない。
それにしても凄い内装だ。地下200メートルにあるのにドームの天井は高く、 シャンデリアやプロレタリア風の壁絵などがとても美しかった。
階段の上部に描かれている”金日成主席と子供達”の壁画の前で記念撮影した。

目的の駅で下車し、地上に出ると運転手が入り口で待っていた。
前もって運んでおいた私の荷物を渡してくれるのかと思いきや、車に乗るように言われてしまった。
平壌駅はもう数百メートル向こうに見えている。
「歩かせて欲しい」
と言うと、今度はまた荷物だけを運んでくれようとするので
「自分の荷物を持って、自分の足で、共和国を歩きたいんだ」と主張した。
何故だかよくわからないが、そのとき私は泣きそうになっていたことを覚えている。
ようやく許しが出て、ほんの数百メートルの距離をバックパックスタイルで歩くことができた。
***自分の足で平壌を歩けた。こんな当たり前のことが一番嬉しかった***
ハイジ、歩けてん!! クララのように嬉しかったあの秋の日
短い距離でも、自分の足で歩くことがこんなに気持ちいいことだとは知らなかった。
足が地面を蹴る感触と、肩に食い込む荷物の重さを楽しみつつ歩いた。
ボクサーでもないのに何度も何度もガッツポーズを繰り返した。
ついに北朝鮮人民服を着たバックパッカーになれた。

さらば北朝鮮・・・


平壌駅までの道のり、たくさんの人とすれ違った。
相変わらずほとんどの人がこちらを見ることもなかったが、数人と目があった。
たったそれだけだが非常にうれしかった。道路の脇で行商人らしき人が小さなアイスクリームを売っていた。
それを人民が通りすがりに買っているのを見た。
地下鉄の切符を除いて人民が人民ウォンを使って買い物をしているのを見たのは初めてだったので、 くいいるように見入ってしまった。
ほどなく金日成主席の肖像画が掛かった大きな建物に到着した。ここが平壌駅だ。
古い建物らしく高さは低い。いざ駅に入ろうとしたら、裏口の様なところに案内された

中にはいると待合室になっていて、テレビが置いてあったり 売店ではソフトクリームなんかを販売していた。
外国人らしい人が何人か座っているだけでガランとしている。

どうやら外国人専用待合室に案内されたらしい。
「ここに来てまで隔離されるのか・・・」と悲しくなった。
外貨ウォンが余っていたのでソフトクリーム(1.5ウォン=90円)など少し買い物した。 お土産用にできるだけたくさんのお札が欲しかったので、なるべくお釣りが多くなるように計算して買い物した。

昨日は忙しくて本屋に行くことが出来なかったので、 金さん個人持ちの「朝鮮観光」という北朝鮮でのみ販売されている日本語の北朝鮮ガイドを8ウォンで譲ってもらった。
これは貴重。

私が兌換券を余らせているのを見て、金さんは「本当は国外持ち出し禁止なんですよ」と言った。
そうそう、お金といえば、今朝こんな事があった。

今日で最後だというので、車で移動中に人民ウォンを見せてもらっていた時のこと。
「兌換ウォンは1.5.10.50 の札があります。
人民ウォンは 1.5.10.50.100の札があります」

そう言って金さんは順々に取り出して我々に見せてくれた。

ニセ札作りにはげんでいる国が作っているだけに
なかなか綺麗な印刷だ


などと思いつつも、特に何も考えずに見ていった。50ウォン札を見せた後、 金さんは軽くため息をついてから、おもむろに100ウォン札を取り出した。 その動きに「まさか?」と思ったが、その”まさか”が起こった。 100ウォン札には、偉大な領袖 若き日の金日成主席が描かれていたのだ。 しかもその隣には、民族の揺りかご:万景台にある主席様の生家が並んでいるではないか!!

欲しい! どうしても欲しい!! この札が欲しい!!!

猛烈に欲しくなって「もしお願いすれば、兌換ウォンと両替してくれますか?」と尋ねた。
100ウォン=6000円、今考えると金さんにとってかなりいいオファーだったと思う。
しかし、金さんは少し迷ったあげく申し訳なさそうに断った。
「絶対に国外持ち出し禁止なんです」
さらにこの後、驚いたことに 記念に写真だけでも、とカメラを取り出すと、それすらもダメだと言われてしまった。
なんとか頼み込んで写真だけは撮ったが、”金日成の100ウォン札”を入手できなかったことを列車に乗った後もずっと後悔していた。

*写真を撮ることすら最初は許してもらえなかった憧れの100ウォン札*
感激の100ウォン札との対面、マンセー♪ マンセー♪

10チョン、50チョンのアルミニウム硬貨は”両替”の形で譲ってくれたが、将軍様の100ウォン札に比べると、 全てのものが色褪せてみえてくるのだった。

しかし、その後この北朝鮮人民ウォンとは丹東の街で意外な再会をする事になる。


列車にて・・・



発車時間が迫ってきた。金さんミンさんの2人のガイドと別れを惜しむ。
思えば彼らにはいろいろとよくしてもらった。参加者二人のツアーというフットワークの良さを生かして いろいろ無理を聞いてくれた。 見送りに来られなかった運転手のおじさんにと、それまで人民兵が嵌めていた指輪を抜いて渡した。
気を使わないで下さいと渋る金さんに「渡しておいて下さい」と無理矢理押しつけた。

因みに、これはモンゴルの由緒ある指輪だそうで、 モンゴルから中国へ来たとき列車の中で会った詐欺師の婆さんに逆ギレして巻き上げた物だ。

モンゴルと北朝鮮、この私が愛する二つの国が自分の中でつながったようで嬉しかった。 きっと今頃は、闇で食料品とでも交換されているだろう。

平壌発北京行きの列車に乗り込んだ。
チケットは4人乗りコンパートメント、つまり2等寝台のようなものをあてがわれた。
後々の都合が良いようにと、我々は中国側国境の町 丹東まで乗ることにしていた。
11時頃出発で、丹東には夕方つく予定だ。

この区間は、北朝鮮製と中国製の2種類の車両が走っているが、 幸運なことにこの日出た列車は北朝鮮製だった。

途中一回の昼食があり、食堂車のウェイトレスが呼びに来てくれた。
金日成・正日父子の写真に見下ろされながら食事をいただく。
北朝鮮で食べた料理の中で、昨夜の焼き肉以外ではこの食堂車の料理がダントツに美味しかった。

将軍様、美味しい料理をありがとう (*写真右 将軍様に見下ろされての食事。北朝鮮製車両のご飯は美味しかった)

食事を終えて、他の車両を見学に行こうと食堂車の後ろに廻ると、ウェイトレスがダメダメとNGを出した。
説明しておくと、この列車はかなり長く、先頭のディーゼル車・運搬車、そして外国人用のコンパートメント車両が三両ほど、 次に食堂車と一般車両が続く。
人民が使用するシート掛けの一般車両に遊びに行くには、食堂車を必ず通らなければいけない。

制止したのがただのウェイトレスだったので、最初は「ドアに鍵が掛かっているのか」と思い、諦めて戻ろうとした。
すると、一人の男が何気なくドアを開けて次の車両に出ていった。
「開いてとるやないかい」
と思い、再度チャレンジしてみたが、今度はウェイトレスが二人がかりで止めに来た。
話の流れとは関係ないが、この四日間は前述の軍服姿の女性”早見 優”以外に美人を見なかったけど、二人のうち片方は綺麗だった。

理由はわからないが、どうやら我々だけはそこを通ることが許されていないようだ。
こんなことで引き下がれまいと、「Why? Why?」とジェスチャーを混ぜて押し問答を開始した。
するとそこに、乗車前に金さんと話をしていた北朝鮮国際旅行社の男性が通りかかった。 「らっきー」と思いきや、彼は
「だみです」
とたどたどしい日本語で私を制止した。

ここまで徹底しているとは・・・
それでもたどたどしい英語で「オンリー ルック ルック」などといいながら、 腕にすがるウェイトレスを押しのけて無理矢理通ろうとしたとき、 ふいに別れ際の金さんの言葉が脳裏に浮かんだ。
「森本さん、我々はここから先お供できません。いいですか? 車内で出来るだけ派手な行動は謹んで下さい。
カメラも出来るだけ控えて下さい。もし誰かが国境警備員に「怪しい奴がいる」と告げたとして、拘束でもされたら、 私はもう助けることが出来ません」

私はしばらく天を仰ぎ少しため息をついてから呟いた「・・・よし、諦めよう・・・」


涙をのんで我々のコンパートメントに戻った。しかし、車窓の風景は、それはそれで充分に楽しかった。
まずスピード、これが不思議なくらい遅い。時速2−30キロくらいか、
「そのうち早くなるだろう」とタカをくくっていたが最後まで殆ど変わらなかった。

そして平日の昼間だというのに、土手に座ってボケーっと列車を見ている子供達がいたり、
コンクリートで出来た枕木の間に鍋をのせ、薪を燃やして何やら煮炊きしている婆さんもいた。

停車駅では、荷物をどっさり抱えた人々がたくさん待っていた。
つい戦後の日本を連想してしまう。
高層都市平壌とはえらい違いだ。
そして、彼等が外国人用車両に乗り込んでくることは決してなかった。
またある駅では、列車が運び落とした石炭のカスを線路上にうずくまって必死に拾っているババア(これは断じてオバちゃんとか婆さんではない)がいた。
うつむいたその表情はみえなかったが、皺だらけの汚れた手に、ゾッとするほど鬼気迫る物を感じた。
長寿番組「世界の車窓から」では絶対観られない光景だと思った。

*列車は平壌を抜けて郊外を走ります。
ピョンヤンの車窓から
列車が鴨緑江を渡り、両国の国境審査を終え丹東の街に着いたときには既に日が沈みかけていた。

〜北朝鮮旅日記(ファイナル)〜




 







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初版:2001年11月31日、