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微動だにしません

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旅の最後に行った韓国のことは、当初「人民兵の旅日記:韓国編」としてまとめようと思ってました。
ところが冷静に考えてみると「旅日記」と謳うほど大韓民国を旅したわけでもないし、正直に言ってしまうと面白いことなど何もなかったので、 北朝鮮の締めと一括りにして書くことにしました

まだ旅日記北朝鮮編を読まれていない方はこちらを先にどうぞ


ついに韓国までやってきた


韓国に着いたのは1999年1月の初旬だった。
北朝鮮から中国の丹東に抜けたのが98年の10月初めだったから、
人民兵にとっておよそ3ヶ月ぶりの「朝鮮半島」上陸ということになる。
その間、私は陸路で中国〜ラオス〜タイ〜カンボジア〜ベトナムと呑気に旅を続けていた。
初めて降り立ったソウルの金甫空港に金日成の肖像画はなかったものの、周囲に聞こえるハングルが耳に懐かしかった。
入国審査が終わるまでの間、私は北朝鮮で過ごした異常な4日間を思い出していた。

ところが感慨もつかの間、空港を一歩出た人民兵を歓迎してくれたのは猛烈な寒さだった。 最低気温零下10度、タイから来た私にとって気温差40度の地獄となった。 大陸性気候のソウルは緯度の割に猛烈に寒い。
こんなこともあろうかとバンコクのデパートで買っておいた厚手のトレーナーを2枚羽織った。 常夏のバンコクでは街中探してもそれ以上暖かそうな上着は売っていなかった。 下には北朝鮮人民服のズボンの下に穴のあいたジャージを重ね着しておいた。 しかし、そんなものは全く役に立たなかった。そもそも体が寒さに全く対応しなくなっていた。
5メートル歩いては建物の陰で休み、10メートル歩いてはしゃがみこんだ。 耳がちぎれそうに痛くなったので、着ていたトレーナーで額まで覆った。そうゴモラのように。
前から吹いてくる風が痛くて冷たくてとても正面を向いていられないので、後ろ向きにムーンウォークして歩いた。
我ながら情けない格好だったが仕方がない。
ソウルの寒さはとても耐えられるものではなかった。
やっとの思いで、ソウルの有名な安宿:大同旅館(一泊9000ウォン=900円)に着いた。



人民兵の心折れる


宿に転がり込んだ時点で人民兵の心は半分折れかかっていた。
気温の寒さより、人の寒さが身にしみた。
これといって誰かに冷たくされたとかあしらわれたわけでもないのに、
心が冷めていくのを感じた。
自分でも滑稽な姿で道を歩いていたのに、韓国市民はこちらを見向きもしなかった。
北朝鮮市民も私のほうを向かなかったが、今回の反応はそれとは違った。
ようするに韓国はただの先進国だったのだ。
思うに、旅人というのは人の好奇心なり親切心をエサに生きているようなところがある。
道行く人がこちらに興味を示さないかぎり、何も楽しいことは起きない。
貧乏バックパッカーである人民兵は、大韓民国という先進国に対して急速に興味を失っていた。

悪いことは続くもので、初日のうちに、複数ある民間の板門店ツアーに電話してみると、 現在ツアーは行われていないと知らされた。 なんでも情勢緊張化のため、 昨年12月から全てのツアーが中止されており、再会の目途はまったく立っていないとのことだった。
そもそも、この国に来たのは
「北朝鮮人民服を着て、
金日成バッジを着けて板門店にゆくため」

だけだったので、それを聞いたときしばらく放心状態になった。

外に出ると寒いこともあり、オンドルの効いた真っ暗な部屋で昼夜も分からず2・3日ごろごろしていた。 幾人かの日本人旅行者と会話してみたが、ノー天気な東南アジアから来た旅人には彼らが面白味に欠けて見えた。

このままではイカン、何かせねばと思い、折れかけた心を奮い立たせ市内観光に出かけた。 宿で同室になった名古屋から来たというおじさんにコートを借りて東大門、南大門、明洞(ミョンドン)など ガイドブックに載っていた場所を片っ端から歩いてみた。
朝から夕方まで2日間歩いて、ここはカップルで旅行に来ると楽しい場所だということだけ分かった。 ブランド物やらエステやら垢すりやら焼肉やら、質の高いサービスが日本の半額から4分の1くらい の値段で楽しめる。逆にいうと、金さえ出せば日本でも同じものが楽しめるわけだ。

食に関しては期待しすぎたのもあったのか、キムチ・チヂミ・冷麺などは何れも、 日本のコリアタウン:鶴橋や生野で売っているものの方がずっと美味しいと思った。
特にキムチに関しては東大門市場(トンデムンシジャン)に出ている十数件を全て味見したが、 大阪生野の「朝鮮市場」にあるキムチ山田商店に適うものはなかった。 食べる機会がたくさんあったわけではないので、比較しにくいが、韓国のキムチは 北朝鮮のものより酸味も辛味も強いように感じた。日本の在日の人々が作るキムチは 韓国のキムチの甘味三倍で酸味半分といった感じだろうか。

ただ単に、日本人受けする味というだけでなく、味の深みも「在日」朝鮮料理の方が上だと思った。
ネイティブの韓国・朝鮮人と、在日韓国・朝鮮人の文化はもう既にかなり異なっていると考えて良いようだ。
食事作法一つ取っても、韓国では茶碗、皿などを手に持って食べることは許されない。
同じ箸を使う文化でも、考え方や習慣は日本と全く異なる。
日本で長年生活してきた「在日」の人達は、最早日本人でも朝鮮人でもない独自の文化を持っている。

唯一興味深かったのは、ソウルの西にある犬料理で有名な商店街で、
そこを歩くとどこからともなく 「ヒヒーン キューン」と寂しそうな犬の鳴き声が聞こえた
その他に、バンコクで出会った金村さんという人が勧めてくれた清涼理という売春地帯を冷やかしてみた。 ちなみにこの金村さんという方は900人斬りを達成した伝説的人物である(金村さんの伝説の話はこちら

彼は風俗音痴の人民兵に
「あなた、韓国に行くなら清涼理ですよ。 ここはサイコーですね。  女の子の質はアジアで間違いなく一番ですね。 ええ、サイコーですよ。 はい。  とにかく女の子の売り込みが激しんで、その辺り一周したら服がヨレヨレになっちゃうんですよ。  え? 値段ですか? だいたい50000ウォン(5000円)くらいですよ、ええ」
と穏やかに話してくれた。

現地に着いてみると、確かに道の両側に居並ぶ売春婦達はみな若くて非常に綺麗だった。 ただ、一人一人が八代亜紀なみの化粧をしているので、顔の原型は関係ないと思った。
それよりも「オニーサン イラッシャイ、サービス ナンバーワン!!」と どこに行っても変な日本語で声をかけられるので非常に恥ずかしかった。

これらの場所も一度いってしまうと二度足を運ぼうとまでは思わなかった。


板門店に行く唯一の方法

*北朝鮮側から撮った板門店会議場の写真。真中に走るブロックが国境です
真中に走るのが国境です。体半分ずつ出して南北の兵士がニラミあってるのがわかりますか?
「どうしても板門店に行かなければ」という思いが日増しに強まった。
ところが、南北の緊張がそう簡単に緩和されるはずもなく、空しく一週間が過ぎた。
同時期に滞在していた日本人学生たちは新学期が始まるからと、板門店を諦めて一人また一人と帰っていった。
そんなある日、同宿の日本人がどこからかツアーの噂を聞きつけてきた。

それは、USアーミーの家族と軍人を主な対象にしている特殊な旅行社で、 ガイドブックにも載せず、一般な知名度は皆無に等しいという。 そんな「米軍直営」の旅行会社がある事に驚き、そしてまた、 ここ最近の緊張状態で本当に板門店ツアーを催行しているのかといぶかしんだ。
そもそも、そこが万が一ツアーをしていたところで、人民兵とはなんの関係ないではないか・・・

しかし、翌朝ツアーの集合場所だという駐車場に行って係りの人間にパスポートを差し出すと
何のチェックもなしに参加の許可が下りた。
私は心のなかで「うそやろ?、ほんまかいな?」と呟いた。
そして、その名もずばり"USOツアー"は嘘偽り無く無事開催された。



恐怖感のない板門店ツアー

待合室のようなところに通され、噂の「死んでも文句を言いません」という一筆を書いた。
ツアー参加者はほとんどがアメリカ人のようで、がやがやとうるさかったが、さすがにその文章を見て緊張したのか 少し静かになった。

一行が乗り込んだマイクロバスに少し遅れてガイドが乗り込んできた。
ガイドといっても、典型的なGIスタイル:ネイティブの若い白人で年のころは二十代後半に見えた。
満面の笑みでバスに乗り込んできた彼はマシンガンのように話はじめた。

当時の人民兵には何を言っているのかさっぱりわからなかったが、 彼が口を開くたびにバスの中は爆笑が渦巻いた。
「うちのママがこういってたぜ、
俺の生まれた頃にゃマイケルジャクソンは黒人だったってな」

みたいなアメリカンジョークを飛ばしていたんだろう。

先ほどの緊張感は微塵も薄れ、一行はしらず楽しいピクニック気分に浸っていた。
アメリカ人ツアー客の大半は別段東アジアのことなど興味もないようだ。
米軍がバックについてくれているので、何も心配いらないと思っているのだろう。
浮かれた一行の中で、私だけは背筋が凍るような緊張感が訪れるのを、今か今かと待ち続けていた。

*写真左 ついに辿りついた板門店 あちら側には北朝鮮の板門閣が見える。 ほんの3ヶ月前、私は確かにあそこに立っていた

板門店に通じる唯一の橋を渡り、ピースハウスに着いて、板門店会議場を眺めても一行のムードは締まらなかった。
予め注意はされていたが、試しに北側に向けて軽く手を上げてみても誰も文句を言わなかった
私はそこで密かに上着の左胸に金日成のバッジを装着した。そして、ついに板門店会議場に足を踏み入れた。
部屋の真中にテーブルが置いてあり、その中心を走るマイクのコードが国境になっている。 その前に韓国軍のエリート、一人の屈強な兵士が微動だにせず構えていた。

「さすがにこれは参加者もビビルだろう」と思ったのも束の間、

威風堂々たる兵士はニヤケ顔のツアーガイドに最敬礼して、また不動の姿勢に戻った

「あかん・・・ 最悪のケースや・・・」

どうやら国連(つまりアメリカ)軍の指揮下にあるここでは、ガイドであるアメリカ将校の立場が 韓国軍よりも遥かに上にあるようだ。 思ったとおり、ツアー客の態度はさらに増長し、 最初から最後までアメリカンジョークを飛ばしっぱなしのガイドのもと、 軽い面持ちの一行は、 緊張感ゼロのままツアーを終えてしまった

とにかくそんな感じのツアーだったので、客のナメかたは凄まじく
「ここでは写真禁止だ」といって制止する兵士のわきに走って、何人もがシャッターを押しまくる程だった。
こいつらからしたら、ベルリンの壁も"現役"の板門店も大した差はないのかもしれない。

正直に言うと、私は緊張感を買いに、つまり背筋の凍るような場面を見たくて行ったのだ。
それが台無しになってしまったではないか。
もし、アメリカ側が真のエンターテイメントを目指すなら、
そいつらのカメラを引ったくって北側の陣地に投げ込んでやればいいのだ。
それを取りに行こうとしたときに初めて、この場所のウリがわかるだろう、真剣にそう思った。
なにかしらと気の悪いツアーだった。

ともあれ、北朝鮮人民服のパンツをはいて、
胸ポケットに付けた金日成バッジをもって南側から板門店にたつことが出来た。
この瞬間、私の旅は終わりを告げた。

平壌からソウルまでたった200キロしか離れていない。
朝鮮時代、この2大都市を結ぶ道路は重要な意味を持っていた。
日本で言うところの東海道と同じだと考えてよいだろう。
そして今、北朝鮮の首都平壌から160キロ南・そして韓国の首都ソウルから40キロ北にある板門店で、 この国は南北に分断されている。この板門店はまさに現在の"関ヶ原"みたいなものかもしれない。 平壌から板門店までの道を「統一路」と呼び、ソウルから板門店までの道を「自由路」と呼ぶ。
この日、私は自分の中で平壌からソウルまでが一本の道で繋がったことを喜んだ。
板門店会議場のど真ん中でしばし目を閉じて、私は半年間の旅を、北朝鮮の記憶を思い出していた。

ここで人民兵はこうつぶやいたという

「この一歩は小さな一歩だ、しかし統一に向けての偉大な一歩だ」
(1999年1月9日:森本人民兵)











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初版:2001年11月31日、