ニカラグアでの国賓待遇
84年の中米ニカラグア、首都マナグア中心部から車で30分程の山の中腹にある
大きなお屋敷を改装したニカラグア国営ホテル、そこに神軍兵は30日間ほど滞在しておりました。
国賓待遇でしたので宿泊費も要らず、山の中のキレイな空気と静かな環境、そして
「あなたさえよければ、いくらでもユックリしていってください」
という温かいおもてなし。サービスが少々悪いことに目をつぶれば
(なんといってもタダなので文句はつけられない)けっこうなもてなしであったと今でも感謝しています。
ただ、神軍兵が敷地の外に出ることは許されず、部屋にドアーは無く鉄格子が嵌めてあり、
外側から鍵が掛かるようになっていました。
思い返してみると、人間同士が理解しあうというのは難しいもので、
アメリカの侵略を被っているニカラグアの
サンディニスタ革命政権(注1)
支援の為の活動をしようと現地に乗り込んだのに、
どういった誤解からか敵方のアメリカ、それもCIAエージェントと疑われ逮捕されたのです。
逮捕された際には殆ど殺されかかりましたし、取り調べでもいろんなことがありましたが、
その詳細に関しては後の機会にお話ししたいと思います。
(人民兵注:このサンディニスタ革命政権は、中米にできた社会主義志向の政権で、金日成主席に
「お盆を持って立つワニの剥製」を贈ったことでも知られています。人民兵も見たワニの剥製のエピソードはこちら
サンディニスタ革命政権をもっと詳しく知りたい方はこちらをどうぞ)
収容所での生活
私が収容されていた施設が入国管理局の一施設だと知ったのはそれから一週間くらい経ってからでした。
そんな「罪を犯したともいえない外国人」と「危険なCIAエージェント」
を一緒くたに収容する当局者の考えは理解し難いものですが、
後々になって、それが彼等の連絡の行き違いや不手際で起こったのだと知りました。
私は独房(実際は二部屋とバスルームを備えた昔の使用人部屋)に入れられ、
そこで取り調べを受けましたが、当初は食事は部屋に運ばれてきたものを一人で摂るようになっていましたし、
他の収容者らと接触することはできませんでした。正確にいえば他者の存在など知るわけもなく自分が何処にいるのかさえ知る術もありませんでした。
ただ、やはり適当なラテンアメリカの国といいますか、日本などでは起こり得ないことですが、
入れられてから4〜5日後には食堂で他の収容者や施設を管理警備する兵士達と一緒に食事を摂るようになりました。
たんなる手違いからか(これが非常に多い)?
食事を一日に三回も上げ下げするのが面倒になったからなのか?
多分後者が正しいと思われました。
私の房へは一旦、建物を出て玄関の車寄せを抜け、屋敷の裏手へ続く下りのスロープを降りないと行けません。
つまり、「道路から見ると平屋建て」のお屋敷ですが地階に相当する部分があるのです。
それと外観からはこれもわかりませんが、中二階もあり無線室になっていました。
食事の後には少しのあいだ娯楽室のような広間で皆とテレビを観るようにもなりました。
ある日テレビタイムの終了後、房に戻される際、何故か自分の房ではなく、
食堂=厨房の下に位置する集団房へ導かれました。
一旦は鍵をかけた兵士は階上に去っていったのですが、
すぐに間違いに気付いたようで戻ってきて私を集団房から連れ出そうとしました。
24時間の孤独にすっかりマイッテいた私は独房に戻されることを拒否しました。
普通ならば通用しないでしょうが私には勝算があったのです。
皆で食事を一緒に摂るようになる以前からでも、そこの施設の最高責任者セヤス氏は
独房に様子を見にきてくれたりしてくれ、理由はわからないけれど私を大いに気に入ってくれていたのです。
それに内務省の情報局から私の様子を見に来るルイス氏も私とは大のナカヨシになっていました。
食堂やそこから娯楽室に通じる通路などで私を認めると声を掛けてくれて、私とオシャベリをするのです。
内容はいつも同じで「飯は口に合うか」「何か要望はあるか」「もう少し我慢してくれ」でした。
要望は?と聞かれる度に「ここから出してくれ」と応えましたが、答えはいつも同じで「明日にはナントカ」でした。
上位の将校と親しげに談笑している私の姿は兵士達には強い印象を与えていたようです。
私が何の容疑で捕らえられて、また何故入国管理局の一施設に収容されているのかは、
責任者のセヤス氏を除いては数人の幹部将校しか知らないようでした。
彼等の私に対する態度は「とんだ厄介者を押しつけられた」という感じで、
こいつには関わりたくない、ということがハッキリと見て取れました。
そのよう状況から「少々のことはゴネたら通る筈だ」と確信していた私は、
集団房に移るのを手始めに、それ以降収容所内でゴネ倒すことになります。
そうこうしているうちに、集団房の他の連中はさっそく私の「特権的な立場」に目をつけました。
「頼む、テレビをもっと観れるように頼んでくれ」
私にはオモシロクもないテレビ番組ですが、塀の中での円満な人間関係は一般社会以上に大事です。
交渉の末、昼と夜の食事前後にかなりの時間のテレビタイムを認めさせました。
私が唯一見たかった夕刻4時30分からのドラエモンは、
「その時間はちょっとカンベンしてくれ。どうしても、というのならオマエ一人だけ」と折れてくれましたが、
集団房内で嫉妬をかうとイロイロ怖いのでタケコプターは諦めました。
食事の際、治安上の理由ではなしに単に数量不足からスプーン、フォークは提供されず、
収容者は手掴みで食べないといけませんでした。そこでも私は頑ななまでに要求を通しました。
食べるものでワガママを言うのは、管理側のみならず同房の者からもよくは思われないでしょうから、
もっと遠慮しておくべきだったのかもしれません。しかし、その当時はそこまでは考えが到りませんでした。
サンディニスタのオバチャン兵士
厨房を預かっていたのは3〜4人のオバチャン達でした。
身分上はサンディニスタ人民軍の兵士でオリーブグリーンの戦闘服を着用していますが、
オバハン以外の何者でもありません。
この戦闘服、女性兵士でも事務職に就いている人はズボンを着用していましたが、オバチャン達はスカートでした。
オバチャンの中に妊婦が一人いて、彼女はマタニティー用の戦闘服を着ていました。
サンディニスタ
なかなか芸が
細かいじゃないか・・・
最初の2〜3日間、独房に入れられていた私は少しでも自分の置かれている状況を知ろう、
なんとかこちらから働きかけれる状況を作ろうと思い、
その取っ掛かりとして「ハンガーストライキ」を行いました。
しかし食事を運ぶ現場の兵士から上官にちゃんとした連絡報告も行われず、
手付かずのままで突き返す食事のトレーも腹を空かした兵士が全部食べてしまうので、
私がハンガーストライキを行っている事実すら伝わってはいませんでした。
ただ一日三回、ほんの3日でも食事の合計は9回になりますので、
さすがに任務にあたる兵士も上官に報告したようで、
その後は「何故、食べないんだ?」というやり取りがありました。
ただ言葉の問題もあり、どうやら私が支給される食事を食べられないと誤解されたようでした。
その時にオバチャン達が私の独房の前に来てくれて声を掛けてくれたんです。
「muchacho(ムチャーチョ=お兄ちゃん)、何か食べたいものがあるなら言ってごらん、
私達が作ってあげるから」
オバチャン達の困った顔を目にして、
私もそれ以降は意味も通じず、ただオバチャンを困らせるだけのハンガーストライキは止めざるをえませんでした。
支給される食事は三食、連日殆ど同じで、昼が一番充実していました。
たまに美味しいオカズが出されると私はそれを真っ先に平らげ、
他の食物がトレイに載ったままなのに、それを窓口に突き出しては「もっとオクレ」などとやっていました。
オカワリはできない規則なのでオバチャン達は当惑していましたが、それでも私にはいつも応じてくれました。
そんなある日のことです。食べ終わったトレイを返しに行くと、オバチャンが
「後でテレビ観るんだろ、そのときに一人でここにおいで」
と囁くのです。まさか、もしやと私の股間は膨らみかけました。私には困った妄想癖があるのです。
とはいうものの、オバチャン達はみなさん素手でアメリカ兵を殺せそうなくらいの精悍な面構えをしておられたので、
そんな妖しい状況になっても困るなーとも思いました。
(ニカラグア人は男女ともに近隣諸国の人たちに比して体格も大きく風貌も精悍です)
娯楽室に集まってテレビを観ている最中に、私は「トイレに行く」と監視役の兵士に断ってから食堂へと戻りました。
オバチャンの一人が私の姿をみとめると、目で「そこに座れ」と促しました。
テーブルに着いた私の前にだされたのはプリンでした。
オバチャン達が異国の地の牢屋に入れられている私をかわいそうに思って優しい心遣いをしてくれたのです。
私は涙が溢れるのをおさえることができませんでした。もう二度とあのオバチャン達には会えません。
神軍兵は涙ながらに悟りました
世界中どこでもオバチャンには勝てない、ということを。
〜神軍兵の戦闘記はまだまだ続く〜
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