 丹東の街で見たものは 
列車の中で考えたこと・・・
平壌発北京行きの列車は田園地帯をうねるように蛇行していた。
私は感傷にひたりながらこの4日間のことを思い出していた。
自由には歩けなかったが、二人だけのツアーという身軽さから、
ガイドの金さんはアドリブで様々なところに連れていってくれた。
農沢君が不意に言った「共和国の伝統的家屋を見たい」という言葉にも、
時計とにらめっこして裏道に入り、
予定コース外にある古い建物に案内してくれたりした。そんなこんなで、ある程度の田舎は見ることができた。
*北朝鮮の伝統的家屋らしい
何度も繰り返したとおり、平壌ではたくさんの人が歩いていた。
このツアーの当初、北朝鮮=死の国というイメージが先行し、街に出ても人っ子ひとり歩いてないんじゃないだろうか?
道ばたに死体が転がっているんじゃないだろうか?などと思っていた。
けれど、それは杞憂に終わった。道行く人々の着ている服は、派手さやカジュアルさはないものの清潔そうだった。
そもそも、平壌という「首都」に住めるのは、かなり選ばれた人達だから、それも当然かな、とは思っていた。
ところが、その平壌市内ですら人々は小さな川で洗濯をしており、韓国との国境近くにある開城でも、
道中の小さな村々でもそれは同様だった。
ガイドによると、現在でも数十万人の人口が住む古都・開城ですら、ガスの整備すらされていないらしい。
マンションに住む人は石炭、平屋に住む人は薪を使っているのだとガイドは説明した。
学校帰りの小学生達が、老人が、主婦が、背中に山積みの薪を背負って歩いている。
驚いたことに、その薪を背負って歩く小学生らは真っ白のブラウスを着ていた。
どこでどうやっているのか、少女達のスカートにはプレスの跡がはっきり見てとれた。
「なんという誇り高い民族だろう」
この極限状態で”白い服”を着ようとするという行為が、人間としての誇りに他ならないように思えた。
同じ状況に追い込まれたとしたら、果たして日本人にこんな真似ができるだろうか。
「服を着るということは誇りなんだ」生まれて初めてそう思った。以後の旅の中では
無精ひげ、ボサボサの髪、よれよれの服にならぬよう出来るだけ気を付けた。
あいにく服のセンスなど持ちあわせていないが、”服を着ることの誇り”という言葉は今も胸にとどめている。
北朝鮮は発展途上国か?・・・
このツアーに参加する前、漠然と北朝鮮は発展途上国だと思っていた。
年間餓死者が、多い年で十万人とも八十万人とも言われる国だ。
世界に唯一残る「社会主義国(キューバ、ベトナムは、もはや脱落した)」であり、
長期にわたる独裁の果てに社会主義において不可能と考えられていた世襲までをも行ってしまった。
常識的に考えて先進国なわけがないではないか?そう思っていた。
移動の車中からどんなに目を凝らしてみても街には物が何もないし、
夜になると真っ暗になる。中国の僻地、ベトナム、更にはカンボジアやモンゴルでさえも、
平壌よりはずっとモノが溢れている。
インフラの整備でも、首都や一部の地域を除けばアジア最貧国ラオスと変わらない。
行き届いた情報操作により 人民は外国のことなど何も知らされていない。
それでも私は、この国は先進国だと思った。
この国に来て初めて、先進国と発展途上国の差は
生活水準や教育水準にのみあるのではないと知った。
最大の違いは「人の心」だと思った。人のプライドが違う。
語弊があるかもしれないから、一応書いておくが、誇り高い人間・民族などは発展途上国にもたくさんいるだろう。
むしろ、そちらにこそ多いのかもしれない。ただ、うまく表現できないが、全く違う。
子供達の衣服を見て、私はこの国を先進国と断定した。
北朝鮮は少なくともただの発展途上国ではなかった。
丹東の町・・・
一九九八年十月八日、午前中に平壌を出発した列車は、
夕方になってようやく中国側の国境の街、丹東に着いた。
平壌発北京行きの列車に乗った我々は「途中下車」したことになるが、
これはあらかじめこの旅をアレンジしてくれた「北朝鮮国際旅行社」の金社長に頼んでおいたことである。
同行の農沢君は、北朝鮮を出国後すぐに日本に帰らなければならなかった。
とはいっても、飛行機代を出せるだけの手持ちがない。
そこで我々は、内陸部にある北京まで戻るより、日本により近い丹東で下車したほうが有利だと考えた。
この先も旅を続ける予定の人民兵にしても、見慣れた北京に戻るより、
中国の沿岸部を旅したほうが面白そうだと思った。
中国入国手続きを終えて薄暗い丹東の街を歩く。
駅構内に一歩出た瞬間から強烈にうるさい。
ところかまわず鳴り響くクラクションの声、
喧嘩をしてるようにしか聞こえない物売りと客の会話。
中国人が歩きながら食べるひまわりの種のカスと一面に吐き散らされた痰・吸殻。
街じゅうに漂う糞尿の匂い。
どうやら我々は世界一静かな国から、世界一うるさい国に来てしまったようだ。
カン高い声で叫ぶように話している中国人民と、
うずたかく積まれた売店の”モノ”を見て軽いカルチャーショックを受けた。
駅前に大きな立像があり、その前を子供達が駆け回っていた。
一瞬、「金日成か?」と思いきや、毛沢東の像だった。
私と農沢君は「フン」と鼻で笑った。
我々の中では最早、
偉大な指導者=金日成の構図ができあがっていた。
北朝鮮には金日成主席の像の前で遊ぶ子供などいない。
安宿を探す。中国では安さに油断するとろくな事がない。
二人部屋をシェアして10元(130円)ずつという安さだったが、
温水シャワー付きだと案内された宿には半畳ほどの汲み取り式トイレが一つしかなかった。
トイレというのも名ばかりで床のコンクリートに円形の穴があいているだけのものだ。
穴の周囲に汚物がこびりついていて強烈な匂いを放っている。
穴の真上には汚いホースが天井から30センチほど垂れ下がっており、どうやらそれがシャワーらしかった。
「これでもましよ。前に行った宿にはトイレもなくて、夜中に我慢できずに流し台の下の生ゴミ入れにウンコしたもんだよ」
そう言って、少し落ち込んだ農沢君を慰めた。
ところが、温水シャワーというのはあながち嘘ではなく、朝になると宿のオバサンは2階にある台所のヤカンで湯をわかし、
それを水で薄めた後、床からニョキっと伸びているホースの口に注ぎこんだ。
「アチ!!」「ツメテー!!」などといいながら下宿人達は、穴に落ちぬよう用心しながらも、階下のトイレで頭など洗っていた。
午後からは丹東の街を散策した。
四方八方手を尽くして”ヤミ”で入手した金日成バッジや、お土産用の記念切手も手に入れた。
特にこの切手には消印が初めから印刷されていて興味深かった。
図柄には、輝く金日成の肖像や、毛沢東との2ショットで
何故か金日成の方が偉く見える写真、
アトランタ五輪で田村亮子を破ってガッツポーズをしている北朝鮮の女子柔道選手など・・・
素敵なプロパガンダが散りばめてあり、どれを見ても胸が躍った。
金日成との再会
翌日、鴨緑江公園まで散歩した。
この鴨緑江(おうりょくこう)という川を挟んで、北朝鮮と中国とに分かれている。
河口にほどちかいここ丹東では、向こう岸までの川幅がかなりある。
公園には「貸し双眼鏡屋」が数人いた。どこの世界にもいる北朝鮮好きがターゲットだ。
1元(約13円)を払うと何分か覗かせてくれるらしい。
ただ、実際に行って戻ってきた我々にはさほど興味がわかなかった。対岸には、これといって気になる物は何もなかった。
横を素通りして、ふと見ると
「貸し双眼鏡屋」の看板に「2000倍」と書いてあった。
うそつけ!!
そこからしばらく歩くと何軒かの土産物屋が並んでいた。
オペラグラス・ポストカードなど、いわゆる普通の物が雑然と並べてある。
しかし、その横を見て私はがく然とした。
国外持ち出し絶対禁止の
100ウォン札
がビニールに入れられて無造作に並べられているではないか・・・。
手にとってみたが、通し番号といい、精巧な透かしといい、若き日の金日成の肖像といい、本物に違いなかった。
袋の中には、他に 1・5・10・50 つまり計166ウォンが入っていた。
値段を聞いて更にがく然とした。セット価格40元だということだったが、ほんの2〜3分の交渉でたったの20元(260円)になった。
「俺は余計なものいらない、我要金日成」と言って、100ウォン札一枚だけ取り出して再び値段の交渉をした。
10元(130円)・・・
ピョンヤンで暮らしている人の月給が200ウォンだと金さんが言っていたことを思いだした。
ふいに、平壌の少年学生宮殿を案内してくれた13歳の少女の細い手足が目に浮かんだ。
私は、彼女にあげようと思ったクッキーを自分で食べてしまった。
「全て嘘だ!」そう思った。
北朝鮮滞在中にガイドの金さんがいつも言っていた
「ゲストの方は外貨兌換ウォン、人民の方は人民ウォンで同様に買い物していただけます」
その言葉が脳裏に浮かんだ。
「しまった!!」 隣にいた農沢君が思わず振り向くほど大きな声を出してしまった。
凄く悔しかった。なんのために今までこの国に興味を持ってきたのか。
あんなに読んできた北朝鮮関連の本に書いてあったこと
「この国には物が何もない、人々は日々の生活に飢えるほど困窮している。
ただ、外貨ショップには物が溢れている、が、決して市民の手には届かない・・・」
そんなことは百も承知して行った筈なのに。
直接の外貨ではなく”兌換券”を使うことで簡単にだまされてしまった。
ピンピンの百ウォン札が、隣の国でお土産用に、つまり中間マージンを介して、
たった百三十円で売られている。
100ウォン=6000円どころか、実にその40分の1以下になる。
「これはお金じゃない、紙切れだ」そう思った。
二倍なんてもんじゃない、この紙切れを何十倍しようが”兌換ウォン”になどなるものか。
ガイドの金さんは初っぱなから
「共和国には何も物がありません」と認めていた。
私は何かおかしいと思いながらも、その潔さや、
運ちゃんからの菓子の差し入れや、自らが”ウォン札”を使うことで、いつの間にか丸め込まれていた。
そう言えば、ある時「大名旅行」に飽き飽きした私が、自由に散歩させて欲しいと頼んだことがある。
その時の金さんの返事はこうだった。
「森本さん、共和国には まだそういったシステムが出来ていません。
例えば、少し前の話ですが、こういうことがあったんです・・・
中国から来た旅行者の方が、バスで移動中に共和国の子供達を見たんです。
あまりに可愛いから、何かしてあげたい、とその方達は窓から飴を投げてよこしたんです。
食べ物を投げて渡すことは、中国ではそうでないのかもしれませんが、
共和国ではとても失礼なことに当たるんです。
子供達は怒って バスにその飴を投げ返したそうですよ。
・・・そりゃ、いま共和国は苦しいです。本当に苦しいです。
くれるというなら、砂糖一個でもありがたいですよ。でも、子供達は投げ返したんです。
そんな何気ない文化の違いが、衝突を引き起こしてしまうかもしれません。
もしも、今の共和国で森本さんにそういったことが起きたら、
私は森本さん達にたいへん迷惑をかけてしまいます。どうか分かって下さい」
そうだ。「砂糖一個でもありがたい」と金さんもちゃんとヒントをくれていたではないか。
どうして気付かなかったんだろう。
どうしてあの女の子にクッキーをあげなかったんだろう。そのことを何度も悔やんだ。
あの国の人たちは、一ヶ月働いて、金日成の顔が描かれた「紙切れ」を二枚もらってるに過ぎない。
自分に対する「戒め」として、金日成の人民100ウォン札を一枚買った。
2日ほどこの街にいると、もうする事が何もなくなってしまった。
苦楽を共にしてきた戦友:農沢君との別れが近づいていた。
残り少ない金を懐に入れて、二人は固い握手をかわした。
この後、農沢君はフェリーで韓国の仁川まで渡り、
韓国・日本をヒッチハイクして実家の奈良まで帰った(農沢君の帰路の詳細はこちら)
私は約一ヶ月かけて中国・ラオスと南下し、バンコクに行くことになる
以上、だいぶん脱線したが、ここまでが北朝鮮の旅の概要である。
そして東南アジアを放浪の後、3ヵ月後の1999年1月、人民兵は韓国に入国して板門店を再訪することが出来た。
その胸に金日成バッジが輝いていたことを知るものは少ない(手で隠してたので)。
*130円で買った金日成主席の100ウォン札
*裏:革命の揺り篭、マンギョンデーにある主席の生家
ここで人民兵が言いたいことは・・・
何事も人の話を鵜呑みにしてはいけないということである。
あの少女の口にはいるはずもない、
さほど美味しくもなかったクッキーのことが今でもわすれられない
〜北朝鮮旅日記(おしまい)〜
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